もはやどこでなにを撮っても、それをケータイで撮ってる別の人がフレームインしてしまう
http://d.hatena.ne.jp/Blue-Period/20111117/1321486538
人はなんのためにカメラを買うのかってことだよね。すると、実はカメラを買ってるんじゃないってことが分かってくる。行き着いたのが、たぶん、思い出をきれいに残すためなんだろうなっていうこと。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/29764

新しいコンパクトデジタルカメラが欲しい、とけっこう長く考えてきた。さすがにすばらしいCaplio GXもぼろぼろになってしまったからだし、いつもα550を持ち歩くのも嫌だからだ。
ただ、なかなか買うに至らなかった。なぜかといえば、「iPhone5が出たら、かわりになるかもしれない」と思ったからだ。さて、結局5でなく4Sが届いたわけだが、どんなものだろう? iPhoneはデジカメのかわりになるのだろうか?

と、機能面、性能、スペック、レンズのよさなどから、俺が語れることはなにもない。俺は数字が苦手だし、レンズの話などいろいろの数字が出てくるのでお手上げといっていい。なんとなく広角なのか望遠なのか、明るいか暗いかしかわからない。
また、画質や写真の良し悪しについてもさっぱりわからない。そういった良し悪しを判定する知識もないし、審美眼もない。はっきり言って、レンズ談義の意味がわからない。
そもそも、ある写真データがあって、それをどういう状態であって、なにで見ることを前提としているのかわからない。原寸でもってPCの液晶モニタで見ることが前提なのだろうか。最近のサイズだと、ものすごい拡大画像を見ることになるわけだが、そこで見えるノイズかなにかを見るのだろうか。それとも、画面サイズに合わせた最大サイズで見て判定するのか。しかし、そのモニタのサイズは、発色はどうなんだろうか。それとも、色合いはヒストグラムの山で判別するのか。それともやはり、プリントアウトして出たものか。では、どこでどうやって出力する? プロラボに出す? セブンイレブンのコピー機? 自宅のプリンタ? さて。

さて、どうも職業柄といってはなんだけれども、低級DTP屋(カラーマネジメントなにそれ? 職人の勘が勝負だ!)としては、用途を考えずにはおられない。どの程度の使用に耐えるか。そして、まったくひどいデータ(数年前にSXGAのサイズで撮ったデータを自宅でプリントアウトした紙焼きを一昔前の家庭用スキャナでスキャンしたと思しき、しかし換えの効かない写真など)多く扱ったりしていると、まったくもう、今どき売られているデジカメならなんでもいいだろうということになる。少なくとも、自分のαで撮ったものならば、チラシでこのくらいのサイズ、屋外用看板のインクジェットシートであの位のサイズとか、そんなふうに思いうかべると、ひどく安心する。
……と、しかし、そんな用途は、実際にないわけではないのだけれども、趣味でふらふら歩いていて必要になるわけでもない。
じゃあ、ブログにアップするため? というと、実のところそういう気持ちもあまり多くない。

ふと、珍しく、他人のことを考えてみる。親戚の、同世代か若い彼ら彼女らの使い方。デジカメで写真を撮るが、クラウドどころかパソコンやHDDに保存するということもない。メモリーカードを使いきったら、新しいものを買う。そして、メモリーカードを入れ換えて、カメラの背面液晶で人に見せ合ったりする。
そうか、背面液晶は撮影のためだけのものでなく簡易モニタ、いや、あるいはこの持ち主にとっての写真の出力の大部分なのか。ちょっとした驚きではあった。

して、考えてみるに、俺も大差ないのだった。俺の写真への興味というのは、シャッターを切った瞬間に8割くらい終わっていて、その後の一瞬のプレビューで「よく撮れたんじゃないのか」と思って8割5分。ほとんどここで終わってるような気がする。そして、HDDに移すときに、家のすばらしいREGZAの画面で見て9割。残りはブログに上げるか、会社のMacのバックグラウンド画像用フォルダに入れておしまい。プリントアウトはいいかもしれない、と思ったこともあったが、結局紙にしたところで見返したりしないし、場所をとるばかりなのだ。

ここで、父のことを思い出す。父はレンズ沼系の人間で、家族旅行の写真などもすべてポジフィルムで撮っていた。自分が小さなころの写真は紙焼きで、母が作ったアルバムに綴じ込まれていたように思うが、ある時期からすべてポジの「スライド」(と呼んでいた)に変わった。もちろん、ポジから紙焼きにもできるが、そういうことはせず、家にはひたすら父が選別した「スライド」が溜まっていった。ガシャガシャやって「スライド」を覗き込む機器もあったが、面倒なので見なくなった。

結局のところ、父も現像されてきたポジを選別して、いらないものを捨てて、ケースに入れた瞬間に写真を終えていたのだろう。あれらの山は、今どうなっているかしらないが、おそらく誰に見られることもなく廃棄されるだろう。

さて、俺もそれと変わらない。そして、俺にとってiPhoneで撮った写真をiPhoneの画面で見て完結するのだとしたら、iPhone4Sはすばらしいカメラといっていいだろう。なぜならば、iPhoneのディスプレイは非常に美しいし、写真をピンチして拡げてみてもまだ解像度は足りていて、たいしたものだからだ。この、観賞するための機械、という意味で、iPhoneよりいいデジカメというのはあるのだろうか。

かといって、iPhoneでデジカメすべてのかわりにはならない。やはり俺は走るサラブレッドをできるだけ望遠で撮りたいと思うことはあるし(かといってサンニッパが欲しいとは思わない)、 TOKINA AT-X 116 PRO DX 11-16mm F2.8でスカッとした超広角のスカッとした空を撮りたいと思うこともあり、MINOLTA AF MACRO 100mm F2.8(旧式)でマクロの草花の世界から帰ってきたくないとも思う。

ただ、あまり重い荷物を持ちたくないとき、スッと取り出してパッと撮るのに小さいカメラは必要だし、それはiPhoneでもいいかもしれない。

ただ、万能とは言えない。むしろ、デメリットを大きく感じるようにも思う。使い勝手の面だ。いくらロック画面から直接カメラにアクセスできるようになったとはいえ、出っ張りのないボタンを押すのは目で追う必要があるし、変なアプリを立ち上げてしまう可能性もある。動画モードになってしまうこともよくあって不愉快だ。さらに、グリップ感がよくない。ただでさえ落としがちなiPhone(もうすでに逗子駅のトイレでガツンと落とした)を、横位置でレンズに干渉しないよう構えるのは大変だ。すばらしいブラックラピッドを装着する必要はないが、ハンドクリップも取りつけられない(探せばあるのかもしれないが)。そして、なにより落下させてぶっこわしたとき、コンデジ一台おしゃかにするよりも失うものが大きすぎる。

とはいえ、コンデジとiPhone、という組み合わせを持ち歩くのはスマートのようにも思えない。iPhoneでなくコンデジのみ、というわけにはいかない。さて、どうしたものだろうか。

というよりも、そもそも、なぜ俺は写真を撮るのだろうか?
撮って、ほんの少しそれを眺めていい気分になるのだろうか?
この答えはよくわからない。ただ、少し思うところはある。世界のありようの記録、ではなく、世界のありようを変える、ということ。だいそれた話といっていいが、写真にはそういうところがないだろうか。俺がそうであってほしい、そうあるべきだという世界を、現実におっかぶせる。現実をそのように見えるようにしてしまう。それは言葉でもできるし、絵でもできる。ただ、言葉ではうまく言えないし(たとえば上の海の写真、雲の具合のせいか沖のほうにぼんやりとした光の筋がある。俺はその筋がたいへんいいと思ったのだが、これを言葉でだれかに伝える自信はない)、絵なんてもっとむつかしい。もちろん、写真で俺が俺の思う世界を表現でき、だれかに伝えられているとは思わない。その知識と技術とセンスとレンズがあるとは思わない。ただ、俺がこのように見たという世界を、世界にひっかぶらせることができるような気になる。なぜなら、それなりの解像度で写っているからだ。ある種の拡張現実といっていいかもしれない。たとえば、俺や俺以外の多くの人が、トイカメラのような、なにかわざと古い写真のようにものを写すのなど端的だろう。
では、なぜ俺は俺の心のありようなり、魂の形などを世界にひっかぶせたいのだろうか? あるいはそれをだれかに伝えさえするのだろうか?
目的のない目的のようなものがある。それをこなすことについては苦痛をあまり感じない。だから俺はそれをするし、こんなふうにブログを書いたりもしている。たぶん、なにかがあって。